本と音楽と、コーヒーと。

本やら音楽やらの、レビューっぽいこと+病気のこともちょっと。

読書と社会科学(内田義彦)岩波新書を読みながら・1

こんにちは、まつじです。

いま、3回目の「おしゃべり会@Skype」のテキスト、『読書と社会科学』(内田義彦)を読んでいます。34ページの、「読みの構造」というところまで赤ペンを入れながら読み終えたので、息抜きのつもりでこれを書いています。

それにしても、1985年の刊行以来、何度も読んできたつもりなのに、「何じゃ、こんなこと書いてあるんだーっ!!」ということの連続という意味では、恐ろしい本です。

申し訳ないのですが、この本を読んでないとわからないようなことを書くと思います。お目汚しと、おつきあいいただけますと幸いです。

さて、この本を読んだ方の多くは、この部分(「はじめに――読書の問題性」から「読みの構造」)を読むにあたって、「情報としての読み」と「古典としての読み」とが対置され、この先「古典としての読み」について内田氏が語る、その前段としてお読みになっていらっしゃるのではないでしょうか。因みにこの第1部は、ある「読書会」で語られたものがベースになっています。

私もその、「情報としての読み/古典としての読み」を対置させ、その一方に(ここでは「情報としての読み」とお取りいただいてよいと思います)偏ってしまっていることを危惧されてます。

しかし私は、どうしても以下の部分が気になってしまうのです。つまり、「読書会」は、まずもって「楽しい」ことを目標にされるとよいと述べられ、その「楽しい」ということに関して、

しんどくはあったが、あの時、私は私であった。私の魂は、さまたげを受けずに、あるいはむしろ、受けたさまたげを排除しながら、すくすくと伸び育っていたと今にして思う。「楽しい」とはこのようにして魂がさまたげを排除しながら伸び育ってゆく時の充実し満たされた情念です(p.7)

と述べられていることが気になり、また感銘も受けるのです。

内田氏が、何か信仰をもっていたかについては知りませんが、「魂」が育つこと=楽しい、とされている。そのスケールの大きな「楽しみ」観に、私は励まされるのです。

あと1点。「古典」における「読み」の多義性(とは内田氏はおっしゃっていませんが)について。

私たちは、前回の「おしゃべり会@Skype」で、『先生はえらい』(内田樹)を読みました。そこでは、師弟関係における「正解」のなさこそが、師匠をして師匠たらしめ、「私こそが、『この師匠』の真髄を理解しているのだ」という、言ってみれば「誤解」の多義性が、弟子たちをして多様な成熟に導くのだという主旨のことを読んだつもりでいます。

まだこれから先の展開を待たねばなりませんが、古典の多義性=豊かさも、この点に通じているのではないでしょうか。

何だかとりとめのない文章になってしまいましたが、最後までおつきあいくださいまして、誠にありがとうございました。

 

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

 

 

【11/4追記】

「魂が育つ」こと=「楽しい」という点に着目したはずだったのに、ほとんどそれについては書けませんでした。「魂」という点では、河合隼雄さんとも通じるところがあると思いますが、これからの勉強の集積を(集積できるほど時間があるのか?)待ちたいと思います。

 

 

 

 

 

【スポンサーリンク】