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果たして大学は「オワコン」なのか?(1)

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おはようございます。零細ブロガー、すずきです。ようこそお越しくださいました。

更新間隔があいてしまっているのに、毎日何人もの方々にご訪問をいただいており、感激しています。

さて、今日の話題は「大学」です。ちょっと硬い話題になりますが、お許しください。

Twitterでの私のタイムラインを見ていると、若い人たちが、仮想通貨や学生起業などで、たいそうな成功を収めているのを目にします。それはそれでいいのですが、そこから「大学なんか、役に立たなかった」を経て、「大学は不要」「通う価値はない」とまで書かれてしまうと、そうなのかなあと思ってしまうのです。

かと言って、大学は「必要」と声を大にして言いたい!というほどでもないのです。

もう10年以上前から、「分数の計算ができない」だの「漢字の読み書き」ができないだのと散々叩かれる一方で、「実学を」という産業界の要請や、予算の削減など、一部のマンモス大学を除いては、かなり経営的にキツいようです。

いま、「経営的」という言葉を使いましたが、それは「即」教育内容にも影響します。

ぼくは、「教育」とは、世代間の円滑な「新陳代謝」を促す営みの1つであると考えています。また、環境の変化などの情報を取り入れて、自己変革を促す営為だろうとも思っています。

そうした「教育」が危機的状況(それはひとり大学だけではありませんが)にあるということは、大げさに言えば世代間での文化・文明の継承や、一人一人の人間としての「成長」が危機的状況にあるということです。

こうした状況を打破するにはどうしたらよいでしょうか。1つには、よく言われることですが、社会人入学を促すという施策があるように思います。ただしそれは、育休同様に、職場を一旦離れても、戻る席があることが前提です。産業界が大きく変わらないといけないでしょう。

「大学教育」が、個人に及ぼす影響とその可能性については、また稿を改めて書いてみたいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

すずきしょうじ

 

 

 

 

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