本と音楽と、コーヒーと。

本やら音楽やらの、レビューっぽいこと+病気のこともちょっと。

間違う権利と、訂正する勇気

f:id:twostars0316:20180123105517j:plain

 

こんにちは。零細ブロガー、すずきです。

先日読み終えた本について、もう少し考えを深めておきたいと思って、ブログにしておこうと思いました。

 

質問する,問い返す――主体的に学ぶということ (岩波ジュニア新書)

質問する,問い返す――主体的に学ぶということ (岩波ジュニア新書)

 

 

著者の名古屋さんは、通信社で記者をされている方で、教育の現場にはお詳しいようです。これについて、ぼくは「読書メーター」に、こう書いておきました。

意図することなく、3冊(『下流志向』、『みかづき』、本書)続けて教育に関する本を読んだ。この本は、主として子どもを「学ぶ主体」として確立を目指す取り組みについて取材されたものである。特定の科目についての新しい「学習法」や「教授法」を伝えようとするものではない。最後の章で「ぶれない人は格好いいか」と問いかけられている。これについて私は、人には「間違う権利」があるのと同時に、「誤りを訂正する権利(と勇気)」とを持ち合わせているのではないかと思っている。その往還ないし相互作用の中から、「自ら学ぶ主体」が立ち上がってくるのだと考える。

この本で取り上げられる年代は中学生から中学生と様々です。ですので、この本全体を、「一般論」的に教育法という視点で論ずることはぼくにはできそうもありません。

ただし、引用部分で書いている、「間違う権利」と「訂正する勇気」については、もう少し説明を加えさせていただければと思います。

人の意見は、しばしば「対立」します。この対立を、ある決定に結びつける方法が歴史の中で模索されてきたと言えましょう。「多数決」という決定方法もその1つです。

「ただし」。

この多数決というものは、いとも簡単に「多数の専横」、そしてしばしば「声の大きな者の専横」を招き入れてしまうという弱点があります。そこで先人は、「多数者による決定が誤っていたのなら、少数派の意見を採用する」というアイディアも付記しておいたはずなのです(出典が出せずに恥ずかしいです)。

誤っていたと気がついたのなら、それを堂々と認め、訂正する勇気を持つ。

集団における決定については、こうした考え方も重要なのではないでしょうか。

それでは、その「個々の」決定主体における「間違う権利」と「訂正する勇気」とは、どう考えればいいのでしょうか。

それについては、もう少しお時間をいただいた上で、記してみたいと思います。

 

すずき しょうじ

 

 

【スポンサーリンク】