本と音楽と、コーヒーと。

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書かれるのを待っている「幸せ」、というのがある

こんばんは、まつじです。先のエントリーは、ちょっとヘンな内容でしたね。気を取り直し、口直しのつもりで、またエントリーいたします。

 

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トルストイが言ったのは、「幸福は一様だが、不幸はそれぞれに多様である(主旨)」だったでしょうか。私は今、それに反して、「不幸は一様であるが、幸福はそれぞれに多様であり、豊かな姿を見せてくれる」と言いたいと思います。

世界中で行われている、ありとあらゆる蛮行「にも関わらず」人間は生き、幸せになる力を持っていると私は信じています。

軽々には語れませんが、あのナチスの収容所の中で、人間としての矜持を保とうと、毎日髭を丁寧に剃り続けていた男性が生き残ったという話を聞いたことがあります。もちろん、その男性が「幸せ」であったというわけではありません。客観的には、どう見ても不幸でしょう。しかし、それはかろうじて、なのか、「それ故に」なのかはわかりませんが、その男性を生き延びさせた。この事実は揺るぎません。

私は、それとは程遠い生活をしているわけですが、毎日こうしてブログを書いている。それが「善き」習慣となっている。そう思います。たぶん、「幸福」の要素の一つとして、「善き習慣をもつ」ということがあるのではないでしょうか。

もっと身近な例を挙げましょう。私は何人かと「まつじさんは趣味が多くてすごいよね」「私なんて、何も趣味もってないよ」というような話をしたことがあります。この「趣味」というのも、まさに「善き習慣」であろうと思うのです。私を例に言うと、書物の内に自らを見出し、音律に心を揺さぶられる。こうしたことが、日々「ある」。もちろん、そんな気分になれないことはあります。しかし、心身が整うと、そうした愉しみを味わうことができる。

趣味と言わずとも、朝起きて飲む一杯のコーヒーがおいしかった、出かけたときに頬をなでた風が柔らかかったなと、「細やかな日常」が保てていることもまた、「幸福」の要素の一つなのではないでしょうか。

こうして書いていると、やはり人が殺されたりするドラマなどは見たいなとは思えないのです。日本のTV(地上波だけでも、一体一日に何人殺されているのでしょうか?)人が不幸になる物語をよりは、人が幸福になっていく物語に接していきたいと切に思います。そして、そういった「幸福の物語」は、未だ見出されずに眠っているのではないかとも思います。

最後にもう一つ、私が感じている幸福の要素というものを挙げてみたいと思います。私には、若い時にですが、「ああ、オレはこれでもう、何があっても平気で生きていける」と思った体験があります。この、平気で生きていけるという感覚、それは、何事にも凛々しく立ち向かうといったこととはちょっと違う。言い換えれば、自分を見失うことがないということでしょうか。

ある児童文学家が、「現代の子どもたちは、平和を生き延びる術を学ばないといけないかもしれない」と述べていたことがありました。それはまた、自分と自分の生活のうちに、幸福を見出すということなのだろうと思います。

ここまでを乱暴にまとめると、人の幸福の物語は多様であり、書かれたり、映像化されたりして共有されるのを「待っている」のかもしれないと私は思います。そしてそれらは、幸福を不可能にする暴力に対する有効な防波堤となるに違いないはずです。

 

 

 

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